南相馬市に支援物資を届けました | 再生日本21


南相馬市に支援物資を届けました

南相馬市沿岸部の惨状

南相馬市沿岸部の惨状

震災から2週間が経ち、仙台方面はかなり物資が行き渡るようになりましたが、放射能への恐怖から原発に近い福島県沿岸部には物資が行かないとのこと。だったら、志塾とWmodeで呼びかけて、私たちが届けようじゃないか。思い立ったが吉日で、即、行動に移し、3月26日、志塾の同志3名で福島県南相馬市に支援物資を届けました。

支援物資と志塾生

支援物資と志塾生

3月26日、無事、二人の志塾生(小山さん・加藤さん)とともに、二台の車で南相馬市に支援物資を届けに行ってきました。朝6:20に家を出、途中で二人と合流。物資を届けた後は、南相馬市の津波被害地と南相馬市内や飯舘村内などの様子を見、二本松市内の避難所を訪ね、最後にいわき市内の津波被害地を見に行って帰りました。
色々感じたこと、考えさせられたことがありましたが、一番は「すべてがうまくいったなあ」ということでした。南相馬行きを決めてから実行日までわずか数日。行くと決めた段階では、メンバーも車もスケジュールも物資の量も、何も決まっていませんでした。最終的には上記のように、三人のメンバー、二台の車で日帰りで行くと決めたのですが、最後まで物資の量との兼ね合いがどうなるのか、分かりませんでした。多くの方が、各地で物資を調達して送ってくれたり、持って来てくれたりしましたし、物資は仕分けしなければなりません。きちんと箱詰め仕分けを終えた後、バラエティに富んだ物資が届く可能性もありましたし。しかし結果的には、きれいに仕分けされた物資は、見事に二台の車ぎりぎり一杯分になりました。
スケジュールも見事に、6:20スタート、22:00帰宅という予定通りになりました。
二台の車を三人のドライバーでローテを組んで運転して行ったのも、良かったです。三台で行くという話もあったのですが、そうなりますと三人とも一人でずっと運転を続けることになります。格段にハードになったでしょう。三人ですと、休める時間が取れますし、二人カーでは話ができるので、疲れは格段に軽減されましたし、眠くもなりませんでした。
たまたま通りかかった避難所に、加藤さん(番町クリニック院長)が書いた、医学的見地から放射能は心配ないとするレポートを置いてこれたのも良かったです。放射能に対する今の政府・マスコミの姿勢は、どうしていいか分からないというのがミエミエで、いたずらに国民の不安感を高めるばかりです。避難所では読むものもあまりないですから、きっと読んで安心感を高める人が出てくるものと信じます。

少しでも不安を軽くしてもらえれば・・・

少しでも不安を軽くしてもらえれば・・・

結果をこう書いてきますと、ごく当たり前のように見えますが、まったく予定計画がない中での短期間勝負でしたから、何か“うまく行かせてくれる力”=神さまのようなものを感じました。
また、この短期間に20人以上の方々から、支援物資、義捐金、協力したいというお声等々をいただけたことは、本当に嬉しかったです。人間、「何かしたい」という気持ちはあっても、目の前に具体的に提示されなければ、動けないものです。Wmodeや志塾が、そういう皆さんの気持ちを形にする、まことにささやかではありますが、拠点になれたかなと思いました。(稻田雅彦)

3月26日、2人の仲間とともに福島県南相馬市に支援物資を届けに行ってきました。
物資は、仕事仲間の義援金、援助物資、患者さんの義援金、さらに、志塾の塾生やWmodeで呼びかけて集まった一般の協力物資を2台の車に詰め込むだけ詰め込んでいきました。
6:50守谷を出発、常磐道から吹雪の雪山をノーマルタイヤでドキドキしながら越え、12:20、無事に到着しました。現在は、避難所に直接届けるのではなく、一か所にいったん集積し、日通の方々がそれぞれに配送するシステムとなっているようで、そちらにすべてお渡ししてきました。

車2台に詰め込んだ支援物資

車2台に詰め込んだ支援物資

その後、まず南相馬の海岸線を見に行きました。そして・・・・・・・絶句しました。これまでTVで見てきましたが、実際見るとそれは地獄のような図でした。今見ているのは、映画か何かのセットではないかと思うようなそれほど悲惨な状況でした。1週間前に宮城に行った私の友達のある新聞の記者が「まるで現実感がないんだ」といっていましたが、まさにその通りの感覚でした。

原発方面に南下する国道(南相馬市内)

原発方面に南下する国道(南相馬市内)

それから原発から30km近辺を見て回りましたが、人影はなったくなく、店もすべてしまっており、まさにゴーストタウンのようでした。
また、港にも行きましたが、そこも、現実とは思えないほどの破壊であり、何十トンもあろうかという船が無残にも港にたたきつけられていました。

小名浜港にたたきつけられた船

小名浜港にたたきつけられた船

最終的には21:30、自宅に到着となりました。
残ったのは「いったいどうすればいいのか・・・・・。」という暗澹たる思いだけでした。復興の「ふ」の字も見えないほどの状況だったからです。これをみて私は「がんばろう東北」とは到底言えなくなりました。たぶんあれは、現場を見てない人のコメントだと思います。あの現場を見たらやすやすといえないはずです。
(がんばれって、医療現場では結構危険な言葉としてとらえられており、私たちは患者さんに簡単には言いません)

店は閉まっていて、街に人けはない

店は閉まっていて、街に人けはない

どうすれば復興できるのか・・・。それも今まったくわかりません。でも、今すぐ私たちができることはいくつかあると思います。まず(1)私たちが今目の前にある仕事を懸命に頑張る」ということです。学生なら、目の前の勉強を一生懸命頑張る、社会人なら目の前の仕事を懸命にやるということ。それは、結果、日本を豊かにします。そしてそれこそがが東北復興につながるということです。まずは自分のできることを自分のできる努力で誠実にやっていきましょう。
もう一つ(2)少しずつ我慢する」ということです。ドラゴンボールの元気玉と同じです。われわれが少しずつ東北の人々の苦しさを背負うのです。一番わかりやすく、まずお金で背負いましょう。子ども手当、農家の個別保障、高速無料および減額、高校無料化の中止、生活保護の支給金額、医療保険などの社会保障費の減額などを行い、それらをすべて東北に回すのです。
地震後のバタバタを見ていて、政治家にはこれを行う気概がないことはわかりました。ならば、我々が、この作戦を日本に広げようではありませんか!! 市民から「おれたちは我慢する、その分すべて東北に回してくれ!!」日本に愛ある革命を起こすのです。これが実現したらすごいですよ!! 「税金を上げてくれ、そして東北を救ってくれ」という声が市民からでるのですから、日本人の優しさに世界中は肝をつぶすほどびっくりするでしょう。名付けて「日本元気玉作戦」です。皆の優しさの革命を応援する一人になりたい、そんな大きな大きな希望を持っています。
ここまで書いたとき、今回、福島で直接、悲惨の現場を見たことは「絶望」ではなく、日本人として、新たな進化に向けた「希望」であると思えました。優しさの渦が日本の空に集まり、その優しさが元気玉として東北に降り注ぎますように。(加藤直哉)

3月26日、稻田さん、加藤さん、小山の三名で、2台の車に義援のお品を満載し、相馬市地方卸売市場の義援受付所に届けてまいりました。
フォークリフトのパレット2つにてんこ盛りの皆様の厚い心のこもったお品を受領してもらいました。受付は、日通ペリカン便の社員方でした。ここは義援の品の管理センターのような役目をはたしているようでした。閑散としていて、被災者の避難場所ではないようでした。
その後、相馬市の津波で流された市街地を見ました。1~2キロ海岸から内陸に入ったところと思われますが、津波で家々が跡形もなく流されていました。海の方までがれきの平原が続いています。ところどころ流されずに残った、ヤシのように見える木々が点々と見えます。落ち着いた街が広がっていたと思われますが、今はがれきと、壊れた屋根、流された車の数々、つぶれた赤い消防車は目立っています。
そのような中、陸上自衛隊の隊員の皆さんが、がれきの片づけをしている様子を目にしました。黙々と作業をされる隊員の皆様に自然と頭が下がる思いです。広いがれきの海のほんの一角の風景です。一体いつまでこの作業が続くのでしょうか。
南相馬市の市役所周辺の町並みは閑散として、店は閉じて、人々の姿は見られません。市役所は人が集まっているようで、駐車場は混みあっています。

避難所で遊ぶ子供たち

避難所で遊ぶ子供たち

帰路に東和町の浪江町の人々の避難所を訪れました。浪江町の消防団の車両が3~4台駐車していることに違和感を感じました。中に入って、役場がここに避難していることに、事態の重大さを改めて感じました。避難されている方々は、身一つで避難していいるのでしょう、どの顔も不安そうで明るい表情は見られません。一刻も早く、元の平穏な生活が取り戻せるようにただ祈るばかりです。
加藤さん、稻田さんは、役場の方に了承を得て、放射能について書いた文書をたくさん掲示板付近においてきました。放射能について、マスコミで報じるような過剰な心配はしないで下さいという内容です。避難している方が、読んで理解していただけたら、きっと明るい希望が持たれることでしょう。
日没まぢかに、いわき市小名浜港の津波で打ち壊された町の惨状を目にしました。500~1000トン位あろうと思われる大きな漁船達が埠頭に乗り上げ傾いて重なりあっています。埠頭は砂や漂流物が散乱して、亀裂やでこぼこが生じています。かつて賑わっていた魚市場と付近もものが散乱して、の町並みは、津波で洗われ、破壊されています。海岸沿いの広い道路にも大きな砂利運搬の艀が横たわっていました。想像を絶する大津波だったことがうかがわれます。

いわき市内の惨状2

いわき市内の惨状2

いわき市内の惨状1

いわき市内の惨状1

東京から、常磐道、磐越道、阿武隈の山間部の村村を通り往復760キロ。無事に目的を終えて帰っきました。皆様の心のこもった品の数々、義援金と、温かいご支援ありがとうございました。簡単ですが。報告させていただきます。(志塾5期サブリーダー 小山嘉治)