東松島市でのがれき撤去ボランティア活動 | 再生日本21


東松島市でのがれき撤去ボランティア活動

 今回の震災で津波による浸水率が最悪だった東松島市は、稻田が学生時代、毎週家庭教師に通った地です。その家自体はもちろん、その家のお父さんもお母さんも亡くなりました。あの町のために何かしたい。その思いで、同市が初めて市外ボランティアを受け入れた4月6日、志塾の同志3名で東松島市にがれき撤去のボランティアに行ってまいりました。

がれき撤去の志塾生

がれき撤去の志塾生

4月6日、志塾1期生の佐藤哲郎さん、5期生の小山嘉治さんとともに、東松島市のボランティア活動に参加してきました。
このボランティアの呼びかけは、4/3の午後。実行日が4/6ですから2日半しか日がなかったにもかかわらず、定員25人(仙台市中心部から現地までのシャトルバスに乗れる人数)は一杯でした。参加者は大学生、高校生くらいの若い人が半分以上。がれき撤去作業が中心という告知であったにもかかわらず、女の子が多かったのにはちょっとびっくりでした。私たち三人以外は宮城県内の方々のようでしたが、その中のお一人は「内陸に住んでいる宮城県の人間も沿岸部を見ておかなきゃいけないと思って」とおっしゃっていました。同胞という思いですね。
午前中に伺った家はまだがれきに埋まった状態でした。色々なものが出てきます。一番驚いたのは、ナンバープレートのついた車のフロントグリル部分が出てきた時。車本体は出てきませんでした。
その家の向かいは医院でしたが、その家の方は流されたとのこと。そういう家主がなくなった家、住んでいた人がなくなった家がたくさんあるのだろうなあ・・・と思いました。
午後伺ったところは、家の方がだいぶ作業を進められていました。「いつボランティアの方が来るのか分からないので」と最初やや不満そうでした。東松島市が市外ボランティアを募ったのは今回が初めてです(今までは市内ボランティアだけでやっていました)。今回のように市外ボランティア25人を募っても、せいぜい1日に4軒程度の作業しかできません。ボランティアセンターの方は東松島市の方かと思ったら、高知県から派遣されてきた方。また、運転手の方もボランティア。とても手は足りません。すぐ近くの運河にはまだ多くの車が突っ込んだままで、自衛隊の方がゴムボートで作業をされていました。まだまだ引き上げられない遺体がたくさんあるのでしょう。

そんな中でも嬉しかったのは、一つはこんな短い期間にこんなに多くの若い人がボランティアに集ったということ。日本はまだまだ捨てたもんじゃないと思いました。それと、小生が個人的に一番嬉しかったのは、やはり志塾生お二人が一緒に参加してくれたこと。お陰で楽しく作業ができました。人生の先輩であるお二人には、作業の中で、作業の合間の話の中で、色々と学ばせていただきました。佐藤さん、小山さん、本当にありがとうございました(小山さんは、前夜に埼玉県を出発し3時間程度仮眠。作業を終えた昨日の夜には埼玉に戻られるとおっしゃっていましたが、無事着かれましたでしょうか? スーパーマンですね)。(稻田雅彦)

「東日本大震災」災害ボランティア活動報告

4月6日(水)、稻田さん、志塾5期・小山さんとともに、宮城県東松島市の津波被災地区に入って、災害ボランティア活動(個人住宅の廃棄する家具類その他の運び出しと、瓦礫と泥の排出作業)を行って参りました。
この活動は、東松島市のボランティア・センターがインターネットで呼びかけた募集に応募したもので、稻田さんの呼びかけの応じて「志塾」(私は卒塾1期生です。)の仲間3名で参加いたしました。
私は仙台市に旧知の友人と妻の親戚がおりましたので、前日(5日)に見舞いの品を携えて、夫婦で仙台市に入っておりました。
当日(6日)は朝7時45分に宮城県庁前に集合し(「志塾」の仲間と合流)、東松島市のマイクロバスで現地に向かいました(妻は仙台市青葉体育館のボランティア・センターに出向いて、災害支援の衣類の分類の仕事に参加いたしました)。
バスに同乗した当日編成のボランティア隊は25名、大部分が仙台市民で、県外の人間は私たち「志塾組」3名の他1名(新潟県長岡市の人)でした。
バスは、仙台市から仙台東部有料道路、三陸自動車道を通って鳴瀬奥松島ICで降りて東松島市に入りました。それから鳴瀬川沿いに南に下り、河口近くで(右折れ)西に向かって掘られた東名運河に沿って西に進み、運河が松島湾に抜ける手前の「新東名」地区で、災害ボランティアの申し込みがあったお宅に到着しました。

25名のボランティア隊は2班に分かれて、それぞれ午前中1軒、午後1軒の計4軒のお宅で災害支援活動をおこないました。
作業に必要な装備は、帽子、防塵マスク、雨具上下、ゴム手袋、長靴ですが、濡れた泥はもちろん乾いた埃の中にも細菌が多く、小さな傷から破傷風になった実例が出ているので、傷を負った場合はすぐに申し出ることという注意がありました。釘を踏む怪我が多いそうです。
私たちが支援に入った地区は、海に並行して掘られた東名運河の内陸側で、住宅は残っていますが、1階部分の天井まで津波が押し寄せて引いていったので、家の中に流れ込んだ瓦礫と家具もふとんも泥でぐしゃぐしゃにかき回したような惨状でした。

東松島市内の惨状

東松島市内の惨状

運河の海側は、海岸まで数キロメートルあって住宅もたくさん建っていたのですが、遠くの海と区別のつかない水面が広がっていて、建っている建造物はほとんど見当たりません。その先には奥松島と呼ばれる島々の景勝が展望され、海水浴場が広がる観光地だったのですが、いまは瓦礫と水の原が広がるばかりです。
私たちボランティア隊は支援要請のあった家の方と作業内容の確認をおこない、最初に歪んで動かなくなったサッシ戸をバールではずして開口部を広くしてから、瓦礫とともに壊れた家具、泥にまみれたカーペット、ふとん、その他いっさいの生活用品を外に運び出しました。私は泥の中から位牌とご本尊のお軸を見つけて出して家の方に渡し、感謝されました。洋服ダンスは壊れて中には泥と瓦礫が詰まっていましたが、和風の桐箪笥は優れた密閉性を発揮して中の着物は損なわれておらず、これには驚きました。高価な電化製品などを含めて生活用具のいっさいが使い物にならず、家の方の指示を受けて瓦礫・ゴミとして外に積み上げましたが、家の方の気持を考えると胸が痛みました。
作業中に、私たちに注意事項を話していた地元のボランティアセンターの担当者が釘を踏んでしまい、担当を途中交代して病院へ行くというハプニングがありました。
家の中から家具類を運び出した後は、折り重なっている畳を運びましたが、濡れた泥だらけの畳は重かったです。縁側から門まで畳を並べて一輪車の道を作り、最後の泥だし作業をスピーディに進めることができましたが、活動の中で生まれた知恵に感心しました。家の中の瓦礫・家具類・畳・その他のいっさいを運び出し、泥を丁寧にシャベルで掬い取って作業終了です。家の方に感謝されながら次に向かいました。
午前中で一軒終了すると、バスで東松島市のボランティアセンター(社会福祉協議会の建物)に運ばれ、ここでトイレ、昼食休憩となりました。昼食・水は各自持参です。
午後も、もう一軒同様な作業をおこない、ボランティアセンターで雨具・長靴を洗って午後5時前にバスは仙台市に向けて帰路につき、午後6時には、宮城県庁前に到着、解散となりました。

当日のボランティア隊は平日ということもあって、地元仙台市の若い人が多く参加していました。バスで私の隣りに座った若い女性は、「高校を卒業したが、国公立の大学受験日が震災の翌日で受験できなかった。1年浪人して受験をめざすことを親が許してくれた。今は少しでも被災者の役に立ちたい。」と語っていました。
また、休憩時間には煙草をふかしていた豹柄のジャンパーのお姉ちゃんも、泥だし作業のときは一輪車を押して男性顔負けの力仕事をこなしていました。
若い男性の参加者は、年配の私をたててくれたり、手を貸してくれたり、とても好感の持てる青年が多く参加していて、私は明るい希望をもらったような心持ちになりました。(志塾1期生 佐藤哲郎)